五島崩れ【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㊴】

前回は、明治維新の混乱を巧みに利用した五島藩主・五島盛德の姿をみてきました。

今回は、五島でまたも繰り返されたキリシタン弾圧「五島崩れ」をみてみましょう。

信徒発見

元治元年(1864)、日仏修好通商条約に基づいて、長崎に居留するフランス人のために南山手居留地に大浦天主堂が建てられました。

この大浦天主堂を元治2年(1865)4月12日、浦上村の住人数名が訪れたのですが、そのうちの一人、「ゆり」という女性がベルナール・プティジャン神父に歩み寄り、自分の信仰を告白して「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいたのです。

これが名高き「信徒発見」で、村人たちは聖母マリア像をみて歓喜、祈りをささげました。

プチジャン司教と創建当初の大浦天主堂(『プチジャン司教書簡集 前篇』浦川和三郎 訳(長崎きりしたん文化研究所、1940)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【プチジャン司教と創建当初の大浦天主堂『プチジャン司教書簡集 前篇』浦川和三郎 訳(長崎きりしたん文化研究所、1940)国立国会図書館デジタルコレクション 】

その後、この話が伝わって、浦上村のみならず、外海、五島、天草などに住む信徒たちが続々とプティジャン神父のもとを訪れて神父の指導を受けたのです。

明治のキリシタン大弾圧

しかし、慶応3年(1867)に日本人信徒の存在が明るみに出ると、長崎奉行所は調査の上信徒を捕縛し、厳しい拷問を加えたのです。

これが「浦上四番崩れ」とよばれるキリシタン大弾圧のはじまりでした。

事件の知らせを受けたヨーロッパ諸国の公使たちは、すぐさま長崎奉行所に抗議しますが、幕府は弾圧を続けます。

しかし、翌慶応4年(明治元年・1868)に幕府が大政奉還して弾圧は終わるかと思わました。

ところが、明治政府も同年4月7日に示した「五榜の掲示」でキリスト教の禁止を継続することを表明すると、信徒の拷問を行ったうえ、流刑まで行ったのです。

「五島崩れ」

この明治元年(1868)に長崎浦上のキリシタン処分決定に始まった弾圧が五島にも波及しました。

その口火となったのが、久賀島の松が浦における迫害で、最も残忍を極めたものとなります。

長崎浦上天主堂でのキリシタン発見以来、久賀島のキリシタンも長崎の宣教師と交流をもち、寺請制度への服従を拒んで自分の信仰を公言しようとしたのです。

これが発端となって、松が浦にあるわずか6坪(20㎡)の仮牢に、老若男女およそ200名がぎっしり収監されるという過酷な状況に。

そのうえ、一日わずか一切れの芋しか与えられず、飢えと苦痛のため死者が続出しました。

座ることもできず、人の体にせり上げられて、宙に浮いたまま眠らざるを得なかったといいますから、その過酷な状況は想像を絶するものといえるでしょう。

人の谷間に落ちた我が子を引き上げることもままならない悲劇的状況で、収監者はみな足が腫れ上がるという惨状でした。

こうして、入牢8か月後には42名の殉教者を出したのです。

このような弾圧は五島全域に広がって、およそ3年にわたって繰り広げられました。

水ノ浦弾圧の生存者たち(『切支丹の復活 後篇』浦川和三郎(日本カトリック刊行会、1927)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【水ノ浦弾圧の生存者たち『切支丹の復活 後篇』浦川和三郎(日本カトリック刊行会、1927)国立国会図書館デジタルコレクション 】

海外にまで知られた「五島崩れ」

この五島におけるキリシタン大弾圧は「五島崩れ」とよばれ、明治の弾圧の中でももっとも過酷なものの一つとして広く知れ渡ることになります。

それは、五島での弾圧をプティジャン神父が詳細に調査してフランスをはじめ各国公使に報告されたことから、各国に広く知られるようになったのです。

これに対して明治政府は、拷問などの事実はなく、神父の虚構流言であるとして取り合いませんでした。

ところが、この対応がかえってその悪名を欧米諸国に広めることになったのです。

欧米各国の非難

明治政府が行ったキリシタン大弾圧は、欧米諸国からの猛烈な抗議を受けることになったのは当然の帰結でしょう。

各国公使は弾圧の状況を詳細に本国に報告するとともに、明治政府へ繰り返し講義を行ったのです。

このような中で、明治4年(1871)欧米各国に派遣された岩倉使節団は、訪問先のアメリカ合衆国のグラント大統領や、イギリスのヴィクトリア女王、デンマーク王のクリスチャン9世などから禁教政策を厳しく非難されました。

長崎大浦天主堂(『切支丹の復活 前篇』浦川和三郎(日本カトリック刊行会、1927)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。

大弾圧の終わり

岩倉使節団の最大の目的は、欧米各国との友好親善をはかりつつ欧米先進国の文物視察でした。

これに加えて、不平等条約を改正するための予備交渉をもう一つの目的としていたのです。

ここで日本にとってもっとも大きな問題となったのが、この明治政府によるキリシタン弾圧が不平等条約改正の大きな障壁となっている事実だったのです。

また、欧米各国の新聞もこぞってキリシタン弾圧を糾弾したことで、日本に対しての世論も悪化する事態となっていました。

こうした「外圧」により、ついに明治6年(1873)2月24日に禁教政策を放棄し、信徒たちを釈放せざるをえなかったのです。

弾圧からの解放

これによって、五島における弾圧も終わりを告げて、ようやく信徒たちは自分たちの家へと帰ることができました。

そして信徒たちは村々に教会を建てて祈りをささげる生活を送ることができたのです。

現在、「五島崩れ」の口火を切った仮牢は、「牢屋の窄」として記念碑が建てられています。

【グーグルストリートビューは、牢屋の窄記念碑と教会です。】

今回は苛烈を極めた明治のキリシタン弾圧「五島崩れ」をみてきました。

いわば明治政府に「忠誠」を尽くした藩ですが、次回はあえなくこれが消滅するところをみてみましょう。

《今回の記事は、『切支丹の復活』『日本地名大辞典』に依拠して作成しました。》

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